natal
東京大学文科三類の学生が色々と呟くブログです
現状
お久しぶりです。
旅行記を書こうと思っていたのですが、なかなか書き上がらずに矢の如く2ヶ月が過ぎ去ってしまいました。その言い訳をさせて下さい。
イタリアとスペインはもとより、奈良・大阪・日光そして福岡・久留米と3月中は各地を旅行して過ごしました。剣道合宿もありましたし、この1年である意味最も充実していたかもしれません。皮肉なものですが。
4月に入ってからは怒涛の新歓期で、この状態はまだまだ続きそうです。所属団体が3つあるので、どうしてもこの時期は忙しくなってしまいます。スキルアップという点で最も力を入れているのは当然剣道ですが、最近はスランプで伸び悩んでおります。語学は中国語とフランス語を増やしました。第4外国語ということになりますが、今のところは順調です。語学は初修段階が最も楽しいですからね。英語から逃げているとも言います。そろそろTOEFLを一度受けるべきなのですが。
駒場で3学期目になります。今回の成績次第で進振り先が決まるので、大事な3ヵ月になりますね。現在は82点ですが、0点換算されてる科目等の関係で、最終的には85点へ引き上がるはずです。とすれば、一部の理系学部を除いてほとんど全ての学部へ行ける、ということになります。候補は経済か国関ですが、前者なら銀行員か外資、後者なら官僚へ進む際に有利なようです。どちらも「そこそこ」興味はあるがゆえに、未だ決められずにいます。「何を勉強したいのか?」それがわからない以上、あみだくじで決めることすらやぶさかではない今日この頃。どこぞの先輩と同じような状況に苦笑するしかありません。
もっと書くべきことはたくさんあるはずなのに、どうしてこんな表面的なことしか書けないのだろう。充実しているのに無性に虚しいですね。
出発前日
国立前期試験の日程が終わりましたね。弟が筑波志望なので泊まりがけで頑張ってきたようですが、本人の感触は「力及ばず」といったところ。正直センター勉強しなさすぎた。真面目に勉強し始めたのが1月入ってからだったので、致し方ないというか自業自得というか。
ともかくも受験生のみなさま、お疲れ様でした。後期ある方はあと2週間ほど、適度に頑張って下さい。全ての日程を終えた方、せっかくの長期休みなので有意義に使えると良いですね。遠出もなかなかに楽しいですよ。僕は割と本気で福岡へ行こうかと思っています。
とその前に、明後日はイタリア・スペイン旅行の出発日。まだほとんど準備していないので、明日は忙しくなりそうです。今回の主目的は美術館だけでなく、様々な文化を味わいつくすこと。前回は食事を節約したり、夜は疲労からホテルでゆっくりしすぎたので、もっとアクティブに、オーケストラとかサッカーとかオペラとか楽しめればいいなと思っています。
追記は弐寺について。
さよなら、またね
ふと1年前の日記を読み返した。「ああ本当に合格したんだなあ」としみじみ思う。もう1年が経った。成長した部分も少なくないと胸を張って答えられる。1年前は美術館にすら行ったことがなかったが、最近は頻繁に出掛けるようになった。二十歳になってお酒も少し嗜むようになった。読書もそれなりに捗った。剣道も多少まともになった。イタリアへ一人旅もした。しかし根本的に変えたいところは、なかなか変革できないものだ。
この1年は様々な人に出会った。親しい人が爆発的に増えた。でも別れもあった。それが辛い。来年は下クラが入ってくる。楽しさも辛さも味わっていきたい。そんな思いと共に、レポート締め切り前日に足掻く。
もっと早く準備しておくべきだった……。
日本橋めぐり
ブリヂストン美術館に行ってきた。もう4度目になるか。学割+HPの割引券でたったの400円で入れる点と、質の高いコレクションが程よい量で並べられている点が魅力的。日本橋という立地も助かる。通学途中にあって足を運びやすい。国立西洋美術館と並んで、最もお気に入りの美術館の一つだ。
今期は60周年を記念してパリへ渡った「石橋コレクション」展が開催されているが、来館の主目的はザオ・ウーキー。三浦篤先生の比較芸術論のレポートを書く際の条件として「現物を見ること」が要求されているためである。都合3度は見たのだが、改めてこの印象を言語化しようと思い立って、家を出た。着いた時には16時を回っており、少し急ぎ足で回ることになった。
まず第一室。ドラクロワの『馬習作』も目を引くが、何よりカミーユ・コローがいい。
『オンフルールのトゥータン農場』

何故今まで見落としていたのか。今まで様々な風景画を見てきたが、段違いに気に入ってしまった。現物の方がわかりやすいのだが、射し込む柔らかい陽光がどこか懐かしさを感じさせる。細緻な筆致だが、この「光への注目」が後の印象派を準備したという。
第4室では、やはりと言うべきかポール・セザンヌの『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』『自画像』が目を引く。共に見慣れた絵だが、堅固な構成が落ち着きを与えてくれる。しかし思うのだが、セザンヌの最も良い点は色彩表現だ。水彩画を想起させる、淡い色彩がお気に入りなのだ。
ちなみに有名な話ではあるが、ポールの綴りは「Paul」であり、パウル・クレーと同じく「パウル」である。そしてこの「二人のパウル」から、ザオ・ウーキーは強い影響を受けたという。
他にも様々良い絵はある(むしろ良質な作品しかない)のだが、キリがないので特別展に関する言及はここまでにしよう。ぜひ直接目で見ることをおすすめしたい。
さて、今回はコレクションの量も多かったので、初めて見る絵がいくつかあった。その中でも大きな収穫だったのが、ハンス・アルトゥングの作品に出会えたことだ。

どうも僕は色彩を重視する傾向にあるらしいが、それにしても幻想的で美しい絵である。細かい線の部分はひっかくことで描いているようだが、この無数の線が光のようにも、人体の筋のようにも(笑)見える。やはり絵画は美しくあるべきだと、僕は思う。
しかし奇遇と言うべきか、それとも必然なのだろうか、この人もアンフォルメの流れを汲むフランスの画家である。さらに出身はフランスではなくドイツ、という点からして、ザオ・ウーキーとの出自的類似は明白である。僕が行くべきはイタリアではなく、フランスなのかもしれない。この春の旅行先をイタリア&スペインにしたことを少し後悔した次第である。
なおこの絵に関しては、ブリヂストン美術館HPのコラムでも紹介されている。
(ttp://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/choice/1/)
最後にザオ・ウーキーの『07.06.85』

最初に出会ったとき、中央から上部にかけての青は水で、下部の白い部分は砂だと思った。つまりこの絵は海底を描いているのだと。しかしこの絵は抽象絵画であるという。(正確には抒情的抽象絵画)
タイトルは僕らに道を示さない。いや、一つだけはっきりしている。「好きなように解釈しなさい」と。定言用法的なタイトルはいらないのだ。ただ、うねる奔流だけがそこに在る。
福岡市美術館に所蔵されているという『僕らはまだ二人だ』も一度は生で見てみたいと、強く思う。タイトルをより正確に訳すのなら『僕らは今も一緒だ』なのだが、僕は不思議な中性的響きを持つ前者の方が好きだ。

子供の命名からゴーガンへ
例えば「亜斗夢」君と命名された子がいたとして。確かに鉄腕アトムは魅力的なキャラクターで、憧れる気持ちはわかる。しかし、僕だったら大迷惑である。今後一生、「アトム的」であることを強いられるのだから。
厳密に考えれば、大抵の人の名前には両親の思いや願望が込められている。最近の「珍しい」名前も、その変形に過ぎない。親が子供に対して所有意識を持っているという土壌がある限り、「珍しい」名前への傾向は加速すると思う。そしてその土壌は、「親に対するメタ存在の不在」がもたらしている。
この不在は医療問題でも強く関わってくる。
「おばあちゃん仮説」をご存じだろうか。おばあちゃんという期間があるのは人間だけで、それは何故かを問う仮説である。
養育経験のある母親が、閉経によって自らの子の養育から解放されることで、他の若い母親を手伝えるようになり、ひいては人間の高い生存率に貢献している。それゆえ、「おばあちゃん期間のある人間」が生き残ったのだとこの仮説は言う。
そしておばあちゃんの不在。親に対するメタ存在の不在。いや人口の割合として「おばあちゃん」は増えるはずなのだが、「おばあちゃん」がいる家庭は確実に減っている。ここではその善悪を問うているのではなく、現状を指摘しているに過ぎない。そして、今後どうあるべきか。地域社会への復帰か、血縁ではなく地縁を重視するか、それとも情報技術の向上に伴って新たな社会形態を構築するのか。
僕は地域社会に回帰しても良いのではないかと思っていた。が、最近はダメな気もしている。過去には戻れないのではないか。
ゴーガンの問いかけだけが、僕の中で木霊している。
『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』
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